弁護士 櫻町直樹 ブログ一覧へ

「死ぬ権利」をめぐる10年:世界の変化と日本の今

令和7(2025)年6月26日

尊厳を象徴するイメージ

平成26( 2014)年、末期がんと診断された29歳の米国人女性、ブリタニー・メイナード氏が、医師の助けを借りて自らの命を絶つ選択をしたニュースは、日本でも大きな注目を集めました。この出来事は終末期における「自己決定権」の問題を鮮烈に問いかけるものとなりました。

あれから約10年余。この問題を取り巻く状況は大きく変化を遂げています。今回は、世界の動向と日本の現状について解説します。

世界の潮流:着実に進む「医師による自殺幇助(MAID)」の合法化

メイナード氏の行動は社会を動かす「触媒」となり、米国をはじめとする英語圏では、医師による自殺幇助(Medical Aid in Dying: MAID)の合法化が着実に進展しました。

  • アメリカの現状: 令和7(2025)年現在、11州とワシントンD.C.でMAIDが認められています。
  • MAIDの定義: これらの法律は、余命6か月以内と診断された正常な判断能力を持つ成人が、医師に処方された致死薬を「自らの手で服薬する」ことを要件としています。医師が直接薬を投与する「積極的安楽死」とは明確に区別されています。
  • 利用者の動機: オレゴン州のデータでは、利用者の動機として身体的苦痛だけでなく、「自律性の喪失」(92%)や「尊厳の喪失」(64%)といった、精神的・実存的な懸念が上位を占めています。
  • イギリスの動向: 長年議論が停滞していた英国でも、令和7(2025)年にMAIDに関する法案が下院で可決され、米国モデルを踏襲した慎重な法制化への道が開かれました。

対照的な日本の歩み:京都ALS嘱託殺人事件の影響

一方で、日本の歩みは対照的です。各種世論調査では終末期における自己決定への高い支持が見られるものの、法制化に向けた具体的な進展はほとんどありません。

この10年間、日本の議論の方向性を決定づけたのは、メイナード氏のような「自律的な選択」の物語ではなく、令和元(2019)年に起きた京都ALS嘱託殺人事件でした。この事件は、安楽死の議論に潜む「脆弱性」や「悪用」の危険性を社会に突きつけ、特に障害者権利擁護団体からの強い懸念を増幅させる結果となりました。

彼らは、「死にたい」という患者の願いが、真に自由な意思ではなく、不十分な介護体制や社会からの孤立といった外的要因によって追い詰められた末の「叫び」である可能性を指摘しています。

日本の現在地:「人生会議」の推進と議論の隔たり

【用語解説】「尊厳死」と「安楽死」

日本では、「尊厳死」(延命治療の差し控え・中止という消極的な行為)と、「安楽死」(薬物投与などによる積極的な生命の短縮)は明確に区別されています。

政府(厚生労働省)は、積極的安楽死という倫理的・法的な難しい課題を避けつつ、本人が意思表示できなくなる事態に備え、終末期の医療・ケアに関する希望を事前に話し合い、共有しておく「人生会議」(アドバンス・ケア・プランニング:ACP)の普及啓発を推進しています。

しかし、近年の調査では国民の7割以上が「人生会議という言葉を知らない」と回答しており、政策と国民意識の間に大きな隔たりがあるのが現状です。国民の大多数(7~8割以上)が「尊厳死」や「安楽死」を容認する一方で、制度を担う日本医師会や障害者団体は悪用への強い懸念から慎重な姿勢を崩しておらず、議論が噛み合わないまま法的な枠組みの停滞が続いています。

まとめ:10年後の答え

私が平成26(2014)年のブログ記事( ある米国人女性が選んだ「安楽死」 )で投げかけた「日本において自殺幇助が合法化される日はくるのでしょうか」という問いへの答えは、当時よりもむしろ遠のいたと言わざるを得ません。

国際社会が多様なモデルを模索しながら自己決定権の拡大へと進む中で、日本は京都ALS嘱託殺人事件の影響を強く受け、「人生会議」という治療拒否のプロセス論に注力する政策を選択しました。これは、日本独自の文化的・社会的文脈の下、悪用への強い警戒感を特徴とする、根本的に異なる道を歩み続けることを示唆しています。